Burning man 2015 (予定)

さまざまなルールの下に、砂漠に街を一週間だけ作るBurning manというイベントがあります。そこへのLow-incomeチケットが当たったので、行くことにしました。2014年につづいて2回目になります。

今回チケットの取れていなかったPくんに、チケットを売りたいTさんを紹介した。一般販売でチケットを運良く買えたが都合で行けなくなったのだ。その時、PはすでにHawaiiへの豪華なバカンス(飛行機はファーストクラス)を予定していたが、それをキャンセルしてBurning manへ行くと即答。Hawaiiの方が良かったんじゃないのかな…。PのBurning manへの強い想いにびびりました。


70 years since the WWII

終戦から70年。こっちの主要メディア(BBC,NYTなど)の反応は少ない。天皇が謝罪と反省をしたという話が少しだけ報道されている。海外からしてみれば、第二次世界大戦中の数ある記録の中の一つという認識で、日本との温度差は大きい。そして日本での報道も年々縮小されているようで、時間の経過を肌で感じる。

日本では、この時期には戦争の悲惨さ、無意味さが報道される。戦争をやってはいけないということが強調される一方、憲法9条の改正(?)をして軍隊をもつべきだという意見もある。それにたいして、個人的には、憲法9条の改正をするしないに関わらず、やっていかなければいけないことがあると思う。

憲法9条の改正でより権限を持った独立国家にはなる。ただ、一つの例としてアメリカのように権力・武力主義化にむかっていくような不安がある。アメリカの力を力で押さえつけるやり方では、テロはなくならないし国内での犯罪も減っていない。武装した容疑者がいればポリスが射殺する(銃による容疑者の射殺は年間1000件を超える)。武力行使が抑止力にはなっているが、戦争をしている国との理解は進んでいないし、国内でも銃の規制もなければ、人種差別も、教育の機会も、貧富の差も改善されていないので、力で押さえつけるだけでは問題は解決しない。

とりあえず一つの案としては、戦争の悲惨さを海外にもっと発信すること。しかし、悲惨さを伝えるということは難しく、受け取る側には重いため多少なりとも批難される気分になる。批難されるだけでは人間は受け入れないものだ。と書いたところでだいぶ面倒になってきたし、あまり知識がないのでかんがえるのをやめますw。ただ、理想というかやるべきことは批難するだけじゃない、受け入れやすい方法で、戦争をしなくてすむツールを作ることなんじゃないかと思います。そして、なんとなく音楽やアート、民間レベルでの国際交流などが重要なポイントとなってくる気がする。

Diner with boxing gym

数ヶ月前に引退したボクシングコーチのMと何人かを誘って晩飯をくった。結果的にかなりいい時間になった。

自分一人で計画から、人呼んで、店の予約までしたので、わりと大変でした。楽しかったのと同時に、うまくいって良かったと一安心。今回の晩飯はずっと数ヶ月以上も考えていたことで、動機とか詳細とかはこんな感じです。



前のジムに来ていた、気合の入った人たちは新しいジムに場所を移ってからほとんど顔を見せなくなった。さらに慕われていたコーチのMが辞めたので、もう会うことがなくなったも同然だった。いきなり辞めたコーチにお礼と感謝の気持ちを伝えたいという人たちはやはり多かった。個人的にも、コーチとはもう少し話したいし、半年しかいなかった前のボクシングジムの空気や人には思い入れがある。前のジムのメンバーとMとで一緒に集まる機会の必要性をはげしく感じていた。誰かなんかやってくれるのかな、と思い続けていても、いままで何もなかった。なので夕食会を不慣れな自分でこれも経験だと思って、オーガナイズすることにした。


始めてみると、顔の広いLくんなんかが手伝ってくれるかと思っていたが、誰も手伝ってくれない。連絡先を知らない人が多いのに、別の人に連絡先を聞くとこから始まった。メインとなるコーチのMに電話しても、なぜかろれつがまわっていなくて何言ってるかわからないし、テキストメッセージだと"ok"と一言しか返事が来ないので、Mさんは元気なのか、来てくれるのかがすごく心配になった。誘った人たちは、「行けたら行く(=「行かないよ」という意味)。」という曖昧な返事だったので心がおれかけた。そして、暴走してほとんど関係のな人たちまで誘っている自分がいた(関係ない人は結局来なかった)。


場所は日本食レストラン、Asaka。夕方7時前に行ってみるとコーチのMが来てくれていた。とても元気で、普通に会話も前と変わらずできた(あの電話はなんだったのか)。あとから現コーチの一人のBくん、そして他の州から出張帰りのDとRさんが来てくれた。かなりいいメンバーだ。さらに、晩飯を食う時間はないが、コーチに挨拶をするためだけに人が来てくれたりした。この時点で一安心。


とくにDは気合が入っていて、おっかなく、緊張感をあたえる。他の人たちもボクシングでしか会ったことない人たちなので、あらためて見てみるとコーチやRさんも含めて皆ゴツい。実際強いし、何度も書くが、気合が入っている。おっかない。店員はいつより気持ち丁寧だし周りの人たちからもおっかなく見えているのかな、と思う。


それなのに、コーチのMがいるので会話は明るく、スムーズだ。Dはアーミーの訓練でクモに噛まれてどす黒くなった傷跡をみせてくれたり、クマにあった話をしていた。近況を話し合って、おれも学校のこととか、最近のボクシングのトレーニングの話などをした。いろんな人が人格者のMを慕っている。Mは自分の教え子たちが大好きで心から大事にしているのが分かる。こういう人たちと普通に飯を食えるのはすごいなぁと感慨深い。


こんな感じで、すこし緊張感がありながら自分も皆も楽しめた有意義な集まりになりました。MもDたちも元気そうで良かったし、次につながる感じがとてもいい(DとRのジム復帰の話、Mのジム訪問など)。個人的に、この夏は、「パーティーを主催する」という目標があったので、形は違うが、これで達成されたことにしようと思う。ちなみにMは日本食は口に合わずに半分以上残していた。

データ解析

実験をするためのサンプルを用意してくれる人が長期休みに出たため、その前の何週かは集中して実験ばかりしていた。いまはデータ解析をしている。それなりに長い間、考えてやった実験なので何か面白い結果が出そうだ。

Simón del desierto (1965)

邦題、「砂漠のシモン」。シュールレアリズムを追求した、巨匠、Luis Buñuelの監督。ネタバレあり。

シュールレアリズムに傾倒していて、Buñuelファンの友人、A先生に貸してもらった作品。A先生は、自分の映画の趣味を共有するのに熱心で、これ以外にもたくさん借りている(DVDでいっぱいのカバンごと渡された)。

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この映画の舞台は、中世のどこかの砂漠の真ん中。そこにある支柱の上にシモンが立って苦行をしている。そこで手を失った人を助けたり、自身過剰な若者を諭したりする。苦行の間に適当な服装のサタン(悪魔)が様々な姿でシモンを誘惑するが、シモンはそれらを切り抜けていく。ここまで無駄に長く、話になんの変化もなく、とてもつまらない。。

話が動くのはサタンが、女の姿でシモンを3度目の誘惑している時。何故か上空に中世ではありえないはずの飛行機が飛んできた。すると次の瞬間、シモンとサタンは大都会New York、マンハッタンのクラブのテーブル席にいた。まわりはアップテンポの曲にのせて激しく踊る楽しそうな若者たち。

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感想:中世の苦行の話を長くつまらないが丁寧に作っていた。最後の数分で意味もなく大都会に行ってしまうところは話を台無しにするのにすごく効果的な感じだった。爽快だ。これはファンが多いのもわかる。DVD付属のBuñuel監督のインタビュー記事もとても面白い。監督の中世の時代への知識は深く、それぞれのシーンへの意図があり博学さを感じる。


そこで、記者は映画の中の一番の疑問について質問をする。

記者:「なぜ最後のシーンでNew Yorkに行ってしまうんですか」
監督:「分からない。」

何の説明もなく一言で答えた。

インスピレーションに従ったことがシュールレアリズムの表現であり、それが意味をなすかは二の次なのだ。

アメリカ生活

昼、食堂でランチを買うためレジに並ぶ。知り合いのメキシコ系のお姉さんがレジ係だ。

"You already paid. (もうお前はもう払ったんだ、行ってちょうだい!)"

と小声で言われておごられてしまう。普通の客には絶対ありえないので、申し訳ないが軽く感動。


学校からの帰り道、夕飯を食いに行きつけのレストランへ入る。雑談したあと注もんすると、

"$3. (今日は3ドルだよ)"

と半額以下にしてもらった。これはよくあって申し訳ないが、昼と夜に同じようなことがあって考えさせられてしまう。


アメリカ生活、おれもここまできたのか(謎)、という感じ。

Sくんのご両親の訪問 2

Sくんのご両親は水曜日にいらっしゃって、昨日、帰って行った。その間、通訳や移動の手伝いなどさせてもらった。

Sくんのお気に入りのレストランへ行き、ゆかりのある人たちにも会った。ホストファミリーや親友たちと命日には花を供えに行った。

ご両親とはお話をさせてもらい、Sくんが子供の頃から人を助けることに関心があったこと、アメリカへ来るきっかけになった話などしてもらう。亡くなってしまってから、こうやってSくんの生い立ちを知るのは妙な気分だ。親近感が湧き、改めてすごい人だと思う。

たくさんの人のSくんとの思い出などを通訳して、その過程で様々な話をきいた。そうしているうちに、いつの間にか、もともと自分がもっていたSくんとの大事な思い出が薄れてしまい不安になる。通訳の人にはよくあるのかしらないが不思議な現象。ワキ役に徹しすぎたのは反省するところかも。

今回、一つ印象に残った出来事がある。それは、Bくん(ホストブラザー)がSくんのご両親へ宝物のメダルをあげたこと。そのメダルは元軍人のBくん(怪我で除隊)が軍の厳しい訓練のあとに上官(Drill Sergeant)からもらったもの。優秀な成績を収めた2人にだけ与えられるかなり名誉なものだと思われる。

これの意味するところは大きい。BがSくんのことを家族と同然に大事に思っていたこと。そうさせるほどの信頼関係を築いていたSくんは改めてすごいと思うし、Bの寛大さにも頭が下がる。戦後70年、個人レベルとはいえ、自国のメダルを敵国だった人間にあげたという事実は感慨深い。歴史的な瞬間に立ち会ったという気分。