教育とは

starbucksにいると、いろんな客をみかける。もちろんコーヒーを飲む人がほとんどだが、中にはお金をこう人、インターネットだけをしにくる人、水だけをもらいにくる人もいる。


外で電話をかけた後、自分の席で作業の続きをしようと戻って行くと、同じ机のむかいの席に乳児連れの若い黒人の女が座っていた。ほかの席がいっぱいだったからだろうが相席はめずらしい。無料でもらえる水を飲み、その水に粉ミルクを入れて子どもに飲ませている。人に慣れていない、笑うことのない乳児。


ふいに、おれが中国人なのかどうかきいてきた。「日本人だ」というと、さらに怪訝そうな顔をしてきたので、日本は中国の近くにある(中国やアメリカに比べ)小さい国だ、というと納得してくれた。そして中国、韓国、日本は場所も近いし、みな似たような顔だが、それぞれ別の文化と言葉があると説明してみた。


すると「いいことを知った」と喜んだ。「言語を勉強したいんだけど、日本語を勉強するのは難しい?」ときいてきた。「日本語は書くのが難しいと思う。」といって漢字やカタカナをみせるとさらに感動した様子。子どものような好奇心というか純粋さにこっちもおどろく。この人にセンスを感じる。


それと同時に気が遠くなるほどの距離を感じてしまった。銃をつきつけられた時に子どもを守るために、東洋の護身術を身につけたいんだ、と言ってきたからだ。留学生とは接点のない治安のわるい地区に住んでいると思われる。ほとんどのアメリカ人でさえ銃をつきつけられることを想定しながらいきてはいない。


「何を勉強しているの?」ときいてきて、自分のことを説明した。この女が学校に興味があるんだと分かった。何をやっても上から目線になりそうで、どうきいていいか分からなかった。でも、勝手にこの女に教養がないことと決めつけて「何か学校で勉強したいの?」ときいた。すると希望に満ちた目で「数学や科学やアートが好きだから何かそれらを組み合わせたような勉強をしたい」と言う。


この子持ちの女が学校に通える手段はあるのだろうか。


いま自分が奨学金をもらって学校へ行っていることをおしえた。生活費が支給されていることも。そしてアメリカは奨学金制度が充実しているので探せば同じような待遇を受けられるんじゃないか、とあまり詳しくないことを無責任に言ってみた。この女の目が輝いて、奨学金のことをきいてきたので、くわしくは学校に問い合わせることをすすめた。


正直なところ、アメリカの奨学金は優秀な人を優先するので、この人にチャンスがあるのかどうか分からない。チャンスがあったとしても学校教育から長く離れていた人間が学業をこなしていく労力は計り知れない。その上、お金以外の面でのサポートを学校からはあまり期待できないのだ。だけど、この人には学校をでないとよい生活がない。学位がなければ選択肢がないという不公平な事実。


知り合いから電話がきたので、はなしの途中で外にでて電話をする。


しばらく電話していると、女が乳母車をひいて外に出てくるのが見えた。炎天下のなか乳児をつれて遠くのほうへ歩いて去って行く。こちらへ振り返ることはなかった。