Norway massacre について

先日、ノルウェーでの移民排斥を訴える青年がテロを起こした(今のところ容疑者)。ノルウェー移民問題についてはまったく知らなかったし、自分なんかが他人の動機なんて理解できないと思うが、短めにこの事件が他の多くのものと同様に提起していると思われる課題を書いてみたいとおもう。


まず、この容疑者には移民に対する偏見が強くあったようだ。どういう理由か、それが移民によって国を奪われると考えるほどの誇大妄想に発展している。この偏見を産む環境として、この容疑者の背景で特筆するところがある。それは社会との接点がなかったところ。報道によれば、控えめな性格に加えて、母親とも別々に住むようになり、父親に至っては何年も疎遠になっていたとされる。コミュニケーションをとるのが苦手で孤独を深めていったのだろう。孤独は暴力(敵対心)を助長するという話をきいたことがあるが、この件に関しては「コミュニケーションの欠如」による偏見が少なくとも原因の一つとなっていると思う。


これはノルウェーの問題ではなくて、どこへ行っても共通の問題だと思う。ここアメリカでも、日本でもインターネット以外での社会との接点は持つ機会は減少してきている。一昔前、アメリカではほとんどの家族が教会のグループに所属していたし、近所付き合いというものがあったときく。いまは、まわりのアメリカ人で教会へ通う人は限られているし、特に若者は近所付き合いというものがほとんどないと思う。


そうなると、スポーツのチームに参加したり、バーで友達を作るなど積極的にならないとできないこともある。そういうのをしない人は身近な付き合いが0になる可能性が普通にある。それでいい人もいると思うが、もし攻撃的な妄想を抱いてる人がいても誰も気づけないような環境は、社会全体としてはマイナスに働く。それを解決するには、かつて誰でも気軽に参加していたと思われる「教会のグループ」のような身近なコミュニティーの復活が必要になる気がする。ただ、いまの時代に誰でも気軽に参加できるコミュニティーというものが一体何なのかは分からない。いまさら教会なんて誰も通いたいと思わないだろう。大衆全体のものであるべきで、個人が簡単に作れるような、たとえば野球チームとかでは意味がないとも思う。


いま一つ思いついたのは小さな地区に分かれて、たとえば団地なら団地ごとに、週一で無料の美味い食事会をするというのはどうだろうか。そんなものあっても個人的には行きたいとは思わないが、友達が参加していたり、食い物がそうとう美味いなら参加するだろうか。いや参加しなさそう…。


このノルウェーのテロは、移民問題が表面的にはあるが、社会との接点の欠如という、よく言われているインターネットなどの現代のライフスタイルがもたらした結果でもあると思われる。市や国など大きな単位で、その欠如を補う何かを作る必要があるだろう。


  • 今週の言葉 "I wouldn't say a single word to them I would listen to what they have to say, and that's what no one did."

「おれは奴らに何も言うつもりはない。ただ奴らのいうことに耳を傾けるだけだ。そして、それを誰もしてやれなかった。」


1999年に起きたColumbine高校銃乱射事件を元に作られたドキュメンタリー映画「Bowling for Columbine」内でのMarilyn Mansonの言葉。映画監督のマイケルムーアに、もしColumbineの子たちやそのコミュニティーに属する人と今話せるとすれば何を言いますか、ときかれた時の返答。人々がColumbine高校で起こっていたことに気づけなかったという皮肉だ。